昭和52年03月11日 朝の御理解



 御理解 第72節
 「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし。」

 世の中にはほんとに尊敬しなければおられない人物もあります。中には本当にもう、軽蔑されても仕方がないと言う様な人もあります。けれどもその、尊敬されるほどしの人が、愈々その人の内容に、それは、自分自身が入って見た時に、ほんとに自分のような者がということに気付くでしょうし、また軽蔑されると言う様な人達でも、今度は見方を変えてじっと見ておりますと、とてもとても、私どもでは及びもつかないような素晴らしいものを持ち合わせておる場合が多いです。
 だから本当に、人間は人は見かけにそれこそ、よらないものだと言う事です。なかなか人間が人間を見るのですから、それこそもうあの人ばかりは見損うたと言う様な事がございます。ほんとにお前ばっかりはもう見損うたと、その実を言うたら、お前ばかりではない、もうみんな見損うとるわけです。昨日の御理解でしたかね。信心が段々分ってくれば分ってくるほど、お礼を申し上げる度合いというものは、深うなるだけではなくて、お詫びをしなければならない事もまた、限りなく深くなってくると言う事です。
 ですから自分自身が、例えば私、皆さんが、私のことを親先生、親先生と言うて下さる。そんなら親先生自身が、私自身を眺めたときに、ほんとに私は親の資格があるだろうか、親先生などと言われる資格が無い、ないのだけれども、やはり神様が、または金光大神様が、おかばいを下さってあるからこそ、皆がああ言うて下さるんだと、いうふうに思うのであって、私自身、私をなら自分で、もうそれこそ唾棄をもよおすような、自分ながら自分を軽蔑したいような心が自分の心の中にあるのです。
 だから私は人を尊重すると、大事にするとか、大事にということは、自分が偉くなると、やはりこうやって見下げることになりますね。ですからほんとにそれこそ、屑の子の自覚と申しましょうかね、泉尾の親先生なんか、もういつも自分ていうものを、もうそれこそ鈍物というふうに言っとられますですね。もう私どもからみたら鈍物どころか大変な徳者としてしか思われませんけれども、ご自身としては、やはりもう、ほんとに自分のような鈍物を神様がようもお使い下さってと言っておられます。
 そこに自分のような鈍物というところが分れば分るほど、だから有難いと、勿体ないという気持ちは強うなられるのじゃないでしょうか。同時に、自分自身が分れば分るほどね、人が、あの人はろくな奴じゃないとか、ほんとにあの軽々しい男だとか、言う様に例えば申しておりましても、自分というものをぎりぎり掘り下げた人がみると、自分よりも、とてもとても優れたものを、持っておられるということに気が付く。そこに初めて人間を軽う見らんで済むおかげが頂かれる。
 軽うみたらおかげはなしと仰るのですからね。もう断言しておられるますんですからね。だから、一つ、なら人をいっちょ、こう、その、ま、尊敬してみろというて、まぁ大将とか旦那さんとかと言うても、それはおだてるようなものであって、ほんとのものじゃない。本当言うたら、人間、神の氏子と言われるのですから、その神性そのものを見るということが一番間違いがないですけれども、なかなかそうは見えません。
その神性が露出しておればね、誰でも分るのですけれども、もう潜んで潜んで、そのおるのですから、なかなか分りませんけれども。それで私は思うんですけれども、ここではすべての事柄に御事柄と、こういうわけなんです。御事柄であるということは段々、天地の大恩が分り、天地の御恩徳を感じさせて頂くようになりますと、すべてのいうならば、事柄の上にも、神様の心が分れば分るほど、すべての事柄が、氏子を幸せにしてやり、より強い、より賢うして下さろうとする働きがある。
 その充満しておる神愛を悟るときにね、すべてのものに御物と御の字を付けなければおられない同時に、事柄の場合にも、御事柄として合掌して受けなければ、相済まんという事になる。のですから神様が一番同じ動物の中でも、御寵愛下さってあるというのが人間氏子、氏子、神の氏子として、その目をかけて下さるほどしですからねだから、これもう人間だけにしか与えてはいないぞというものが、人間には与えられておるのですから、本当に神様のいうならば、愛し子であり、氏子である銘々なのですから。
 これはほんとに、ならその人の例えば、人柄と言った様なものにです、やはり御人柄とこう言えたり、見えたりするような自分にならなければならないなと言う事です。人はああ言うけれども、あの人は本当にとても私たちの真似のでけん様なものを持ってある所にその人の人柄が、尊重される事になってくるのです。こりゃどうでもね、軽う見たらおかげはなしと仰せられるのですから、それと反対に、本当に丁重に丁重に扱えれれる事になったら、おかげがあると言う事になるのじゃないでしょうか。
 軽うみたらおかげはないのですからね、それを重く尊重する、いわゆる頂き方が身に付いてくる、ためにいよいよ自分自身が分ってこなければならない。有り難い度合、相済まんという、どの程度に相済まんと思うておるか、相済まんと思うとります、というても、そこに謙虚さもなからなければね、勿体なさそうなふうも見えないというならば、それは、上っ面の相済まんであったり、有難いであると悟らしてもろうて、そういう有り難いには、おかげはなしと思わなきゃならん。
 心の底から有難いと思えれる。そこへもうとにかく一番自分の身近な人達の、ひとつ素晴らしいところを発見する、というよりも、気付かして貰うことだよね。気が付いてない、なら私なら私が家内やら子供たちやらをほんとに尊敬し、尊重させて頂くところから、私は家庭の和が必ず生まれてくると思います。信心は家庭に不和がなきが元と仰せられます。例えば尊重し合うていない、拝み合っていない、それではやはり、家庭におかげが受けられるということはないのです。
 先日、ある方が朝の御祈念に参って来てから、毎朝熱心に参って見えます、御夫婦で。奥さんが言われるのに、先生昨日もまた失敗しました。もう主人とちょっとしたことで、いざこざを起こしてからとこう言う。けどもあなた方のように一生懸命、いま信心をなさって、日ごろ一生懸命に、そんなら尊重しあい、拝み合いあっておられるのだから、たまには、やっぱ休み休みすちゃ時にはいいでしょうね。まぁ気晴らしにもなってよかごとあるというてまぁ、話したことでしたけれどもね。
 本当に気晴らしの程度の、まぁいざこざは、いいですけれどね、それがほんとに実になり、あの人からああ言われたとかああされたとか言う事が、忘れられん様な事は、一つ愈々ない事にしときませんと、やはりおかげになりませんです。親子ですから、そらいつもかつも、あなたこなたと言い合うておる事ばかりもできない事もありますけれども、けれどもやっぱり、その人人の、いわば素晴らしさというものを、私はそれをいつも思うんですけれどもね、これはもう私の子供に思うんです。
 本当に私の子供にしては、出来過ぎとると。とても私は真似出来んというのが、どの子にもやっぱりあるんです。なろうたとこばっかりというわけではないんですけれども、だから私はいつも子供の時、子供を見る時にはそこを思うです。家内の場合でもやっぱそうです。とても私どもが真似のできないものを持っておる。そこのところを拝むんです。そこんところをこう、尊重して行く時にです、子供がやはり親を丁重にしてくれるようです。家内のここが真似のでけんというところを拝んでおりますと、家内もやはり、拝んでくれておるようです。
 こりゃもう、あの心と心に感ずること、交うことですから。ですからどこにかそこに尊重に値するものを、その人人から頂き、又はその人を拝めれる内容の有るところを拝んでいくと、その拝んでいく所が段々広うなって参りましてから、今度は拝まれておる自分に気が付くようになりますと、もういよいよそれは、より尊重し、丁重にしなければおられなくなってくるんです。人を軽うみな人を丁重に、いうならば謙虚な心でさして頂くときに、自分自身もまた、丁重に扱われることになります。
 それで、人が自分を軽う見た、俺を馬鹿にしておると言った様なときが、一番自分自身を分るときです。いかに自分が丁重に扱っていないか、尊重していないかということを、気付かせて頂くときです。これはもう、こうすればおかげになるという教えなのですから、こうすればおかげにならんという教えなのですからね、おかげにならんことは一つ、いよいよ私どもの生き方から改まらしてもろうて、いわゆるおかげになる生き方を、いよいよ育てて行くということが、信心であります。
 人間を軽うみな、軽うみたらおかげはなし。人間をいわば尊重せよということはまた自分自身が尊重されるということでもあると同時に、尊重さして頂く頂き方ができれば、おかげがあるということにもなるのであります。どうぞ。
私は信心させて頂いておる人達、一人一人のその人柄というものはね、そういうものがにじみ出て来る様な人柄、そこにはぁ信心頂いてあるけん、やっぱ違うと言った様なものにも、こうなってくると思うです。信心頂いておって、ほんとに軽々しい、軽々しいというか、いわゆるあの、慎重さのないというか、心に有難いものはもう感じられないような人も中にはあります。ですからどこにかそれがにじみ出て来る様な、滲み出させようではなくて滲み出てくるおかげを頂きたいと思うですね。
   どうぞ。